景観デザインを目指せ

重山陽一郎の個人ブログ blog.enviro-studio.net
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鴇波洗堰(北上川分流施設群 その1)
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 鴇波洗堰(ときなみあらいぜき)というのは、北上川分流施設群を構成する土木構造物の1つ。竣工は1932年(昭和7)年。
 
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 北上川分流施設というのは、明治末期から昭和初期にかけて行われた大工事で、ここで全てを説明するのは難しいんだが、現地の説明看板の図が分かりやすいと思う。上部の「旧北上川分流施設」と書いてあるところから、旧北上川と(新)北上川に分けて、下端の町(石巻)を洪水から守ろうという大事業だ。

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 これも現地の看板で、西から東向けに撮影されている。かつては左上から下にむけて旧北上川が流れていたものを、左上から右上に(新)北上川へと流そう、というわけだ。それで、流量を調節する施設として、堰とか水門とか閘門とかいろいろ作られた。
 今回紹介するのが、写真の左端に写っている、鴇波洗堰。これと右側の脇谷洗堰の2箇所から旧北上川に水を流している。最初の計画では鴇波洗堰1つのつもりが、工事を始めたらいろいろ起きて、脇谷洗堰が追加されたそうだ。このあたりの詳細については、下に参考文献を紹介しておく。

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 鴇波洗堰は、オリフィスをもっていて、写真の右から左に地下を水が流れていく。洪水の時には、ここを越流もする。こんな形式の洗堰は珍しいらしい。

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 コンクリートの暗渠(オリフィス)が18もあるんだ。向こう側に堤防の断面みたいなのが見えるけど、初期の計画では堰の上にも堤防をつくって、越流しないつもりだったらしい。地盤が弱くて盛土したら沈下して止めたそうだ。オリフィスの巾がずいぶん小さいのは、そういうわけなんだろう。
 文献を読むと、何度も設計変更されている。1910年(明治43年)の最初の計画では堰長が195mだったのが、1915年(大正4年)の着工時には130mになり、竣工時には51mになってるんだ。苦労したんだろうなぁ。ちなみに、この間の1922年(大正11年)には、新潟の大河津分水が通水している。

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 壁が剪断破壊されているけど、これがその沈下の跡?

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 コンクリート製なのだけど、石積み風の目地が入れてある。くびれている部分は角落としだと思う。

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 魚道もついている。完成当時の写真を見ると、昭和6年の竣工時から魚道があったらしい。

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 下流側は、結構な水量が出ている。

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 こちら側も、石積み風の目地が入っている。梁の部分の目地の入れ方とか、拘りが感じられて面白い(^^)

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 選奨土木遺産に選定されている。

参考ホームページ
北上川・鳴瀬川の改修の歴史(国土交通省)
きょうどをひらく(宮城県)
土木コレクション(土木学会)
北上川分水施設の建設史と遺産的価値に関する研究(土木学会)

位置:景観デザイン事例地図

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Category:宮城県
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